著者からのコメント

一九八九年七月より四年ほど国際物流を扱う会社の駐在所長としてモスクワに駐在した。折しもその時期は、ソ連が崩壊するという歴史の激動期であったが、駐在した翌春のある晴れた日曜日の昼下がり、単身で生活したアパートで寛いでいて、居間が殺風景なことに突然気が付いた。それで、そんな雰囲気を和らげようと花の代わりにいっぷくの絵を飾ったことから、図らずも趣味として絵画鑑賞や蒐集をすることが、私の心の中で大きな場所を占めることになった。

本書は、私が最初に駐在した歴史の激動期に焦点を当て、その駐在時の絵画体験をもとに、現代ロシア写実主義絵画の魅力とその本質的な特徴を論じたものであるが、そのテーマからして本来美術書の範疇に属すべき性質のものであるのは言うまでもない。とは言え、合計三十九点の絵の写真掲載とそれらの美術解説のほかに、駐在時のモスクワの生活や絵を入手した経緯等も書かれていて、しかも、それらのノンフィクション的な物語性が一貫して本書全体を貫いている。一般的な美術書としての体裁からひどく外れている本書のかような構成に対して、ノンフィクション的な物語性は美術書として余計なのではないかと思われる方がおられたとしても、それはごく当然なことであろう。

しかし、その構成にはロシア絵画の特徴についての私なりの考えが反映されている。つまり、私の理解するところでは、ロシア絵画はその時々の社会的な時代性と国民の生活に深く結びついたものであるため、それらと切り離して単に審美的な側面からアプローチするだけでは、ロシア絵画の本質を捉えることはできない。それ故、一見余計なことのように思われることも含めて、ロシア絵画がどのようなものであるかという本質的な考察をする上での伏線として、ロシアの社会とその国民生活が背後にあるような書き方をしたのであるが、私としては、それだからこそ、高名なソ連人民芸術家オソーフスキー画伯に本書のその原稿を大変気に入って貰えたのであり、彼が本書の序文において、「石井氏が非ロシア人の目でロシアの画家に特有なもの、即ち、深い洞察とロシアの風景画並びにロシア写実主義流派の伝統に対する熱狂的な姿勢を開示することに成功しているのを見て、少なからず驚かされた。それこそは、民族的なレベルのみならず、世界的なレベルの才能がこれまで常に輩出し、またこれからも輩出する土台となるものなのである」と述べてくれたのではないかと考えている。