トルストイ生家のロシア絵画

トルストイ生家の写実主義絵画(日本トルストイ協会報『緑の杖』第13号

(2016年3月12日発行の掲載原稿を2021年6月30日再修正)

石 井 徳 男

 一九八九年より約四年、国際ロジスティックに従事する会社の駐在員としてモスクワに勤務した。日本からヨーロッパ及び中央アジア向け、またその逆方向への一貫輸送を荷主に対して負う方式により、シベリア経由コンテナ・ランドブリッジ輸送を行っていた日本の会社として最初に駐在員事務所の認可を得たのもペレストロイカのお蔭であり、仕事の傍ら一般のロシア人たちと交流して、彼らの生活を通じてソ連や新生ロシアの社会を見ることができたのも、またひょんなきっかけから、絵画鑑賞と絵を蒐集することが数少ない趣味に加わり、その芸術魔力にのめり込むほど傾倒させられたのも、まさにペレストロイカのお蔭であった。

 ついでながら、個人的なことを述べさせて頂くとすれば、初めての海外勤務となったこのモスクワ駐在は、私の人生観が大きく変わるきっかけとなり、後から思えば、人生の転換点となった。

 それをうながした理由の一つは、それまで私は、長年ソ連との物流の仕事に携わり、ソ連の鉄道輸送や物流システムの情報を独自に集めて、その知識を営業に生かして経験に見合った実績はそれなりに上げていたものの、会社という独特な組織の中に身を置くことに馴染めずに、居場所を間違えたような疎外感を覚えることもよくあったのである。ところが、日本人一人事務所の所長として派遣されたために、恰も会社組織の外に身を置くこととなり、その途端に悶々とした自身のわだかまりも消え、そのような海外駐在を通じて、水を得た魚のように効率的に仕事をこなす充実した自分を早々と実感する。その経験から個人主義の私には組織の中に身を置くよりも一匹狼でいた方が、自分の力を発揮するタイプであることを今更のように確認した。

 二つ目は、身近に接することになったソ連の人たちは、普通の庶民で、被支配者階級であり、ある意味では、みんな落ちこぼれ組であったが、ペレストロイカによって法律や社会システムが激変し、ハイパーインフレが進行するという状況の下でさえ、人懐っこい素朴さや人の好さを失うことなく、身に降りかかる困窮を、笑いを誘うユーモアやアネクドートに変えて、したたかに、たくましく生きている。それは私には新鮮な驚きであり、強い衝撃であった。ソ連の社会システムと日本のそれは大きく違うので、彼らの生き方をそのまま自分に当てはめることはできないのは勿論のことであるが、そのような彼らの生き方から、個性を拠り所に自分らしく生きるヒントを学び、生きる意味の多くを彼らから学んだのである。

 そして最後の三つ目は、忙しい駐在の仕事の活力源ともなった絵画鑑賞と蒐集という新たな趣味の世界に図らずも引き込まれることになる。若い時に、たまたま訪れた展覧会で目にした油絵が良い絵だと感じ取ったことも何度かあって、それなりの絵の感性は元々私にあったようであるが、モスクワで頻繁に絵を見るようになって、その感性が磨かれたのか、そこで初めて、絵によっては、というのも私が解るのは良い絵の場合に限られていたからであるが、画家の創作意図が透けて見えるほどに理解が及ぶという嬉しい発見をする。そうした度重なる経験から、自分が何に向いていたのか、何をすればよかったのかを、遅ればせながらも知ることになる。やがてそれは上に述べた二つの新たな体験に基づく自身についての認識とひとつになって、私のその後の人生を方向づけたわけである。

 しかし、ペレストロイカのお蔭で自分のことをしかと知ることができたとも言えるこの幸運な駐在経験が、私の残りの人生をかけたライフワークに結びついて、大きな意味を持つようになるのは、帰任してから数年後に止むにやまれぬ気持から結果的に出てきたことであったが、十八年前に、自分のコレクションを活用して日本で現代ロシア写実主義絵画の素晴らしさを知って貰うための普及活動をしようと心に決めてからのことである。それ以来、写実主義絵画への関心を高める観点からの至難と思える条件作りの挑戦を、多大な時間を費やして連綿と地道に続けている。それと言うのも、ロシア絵画を理解する絵画愛好家の裾野を広げるための条件作りの活動がまだ道半ばであるため、実現の目途は立っていないものの、絵画芸術は原画が命であり、それゆえその普及のためにコレクションを公開して、絵画鑑賞の楽しみを絵画愛好家の人たちと共有するという当初からの夢を、つまり、現代ロシア写実主義絵画を常設する美術館の設立を、長期計画を立てて、何とか実現しようと希求しているからである。

 それはともかく、それとの関連で「現代ロシア絵画考」(2005年、図書新聞発行)という本を書くことになるが、その経緯は、その本やホームページで公開中の改訂版に詳しく述べてあるので、割愛する。(改訂版のURLは、https://www.ishii-gallery.com)

 前置きが長くなってしまったが、絵の主題である文豪トルストイを通じて、日本トルストイ協会に繋がることにもなる下記の絵画を、上に述べた拙著の改訂版からそのまま抜き書きして、ご紹介することにしたい。また、この絵の原画をじっくり鑑賞すれば、この絵の作者が感じていたように、ヤースナヤ・ポリャーナを抜きにしてトルストイを考えることはできないと思われるほどに、文豪がその地に強い絆で結ばれているのを感じ取ることができるであろう。この絵の作者は、コレクションの大変多くの作者がそうであったように、十八世紀から現在に至るまでのロシア美術史全体の中で、それなりの高い評価を得ている画家であることが今では明らかになっている。その彼が描いた絵であるがゆえに、彼が生まれ育ち、不朽の名作を書き綴ったその邸宅を、非凡な創作意図と技量により表現したこの作品からトルストイの人となりを伝えるオーラがひしひしと伝わってくるのである。

 
L・N・トルストイの家博物館

図版 12  I. A. ヤーゼフ(1914 – 2011)
ロシア芸術家同盟会員
「L.N. トルストイの家博物館(ヤースナヤ・ポリャーナ)」 
(制作1986年) 油彩・画布 100 x 70 cm

 「L・N・トルストイの家博物館」(図版 12)に描かれている家は言うまでもなく、トルストイが生まれ、八十二歳の生涯の半分をそこで過ごして、「戦争と平和」や「アンナ・カレーリナ」の大作等を執筆したヤースナヤ・ポリャーナの邸宅である。モスクワの南、約百九十キロの位置にあり、駐在期間中一度は訪れてみたいと思っていたが、結局はその思いを果たすことなく終わってしまった。その代わりというのも変であるが、その素晴らしい絵を手にすることができたために、実際そこへ行けなかったという悔いは私の心の中で多少は償われた格好になっている。

 この作品は、手前のつっかい棒を施された老木があたかも絵の中心に据えられているかのように、力を込めてどっしりとリアルに描かれていて、それは背後の博物館になっている住居やその周囲の環境をトルストイが生活していた時代から常に変ることなく保存してきた、その歳月の年輪を象徴しているかのようである。それに対し住居の方は物置が目につく方角からさりげなく控えめな色調で描かれ、その後ろの秋の白樺の林も目立たないようにくすんだ黄金色になっている。その意識的な構図と描き方にはトルストイについての画家の理解が反映されている。

 トルストイが四十年にわたり住んでいた家は質素な落ち着いた外観を見せ、見る者が彼の人柄を偲び、そこで彼が生活し、思索し、悩み、世界文学史上揺るぎない位置付けを持つ不朽の文学を創造したという特別な感慨に浸るのに似つかわしいものになっている。手入れの行き届いた庭にはひとまとまりの赤い花が咲き、住居に付属した物置の軒下にも蔓のように巻き付いた赤い花がぼかして描いてあるが、それらの赤の色調はこの絵全体を色彩バランスに富んだものに引き立て、また老木からこぼれて庭に点在する落ち葉の存在は、この絵の静かな雰囲気を強めている。

 この作品は後の章で詳述する絵画美術センターという名前の画廊で手に入れたものであったが、それを買う時にそこの従業員のおばさんが、この絵が手元を離れるのを残念がり名残惜しむかのように、「これはいい絵だよ。いい絵だよ」としきりに言っていたのを思い出す。彼女の気持が今よく解る。私にとってもこの絵はいつもそばに置いて、飽かず眺めていたい絵のひとつである。

 ところで、二回目のモスクワ駐在満了直前の二〇〇三年六月になって漸くヤースナヤ・ポリャーナの訪問を実現することが出来たが、それにより新たに知り得たことがあるので、それをここに記しておくことにしたい。

 住居の付属物は実は物置ではなく、ベランダであった。そこはトルストイと彼の家族が、夏によく朝食を摂った場所という。また、住居の前の*老木は既になく、切り倒された跡も見えなかったことから、画家の創作ではなかったかと想像している。住居をただ現実の風景に即して控え目に表現するだけでは、全体に力点のない弱々しい印象の絵になったことであろう。画家はそれを避ける意味で強弱対比の構図を採用し、意図的に存在感のある老木を前景に描いて、その分背後の住居を目立たなくしたものと想われる。「なるほど、そういう描き方もあったのか」と、ヤースナヤ・ポリャーナを訪れて、その絵の構図についての画家の優れた着想に初めて理解が及んだ思いであった。

 その後、ある読者よりご指摘を頂き、その木はかつて実在していたことが判明した。「貧者の樹」と呼ばれていた楡の老木で、トルストイの存命中は近隣の農民や悩める学生らがその木の傍でトルストイが邸宅から出てくるのを待ち、人生の相談ごとを持ちかけた。木の呼び名は、そんな彼らにちなんでつけられたものらしい。しかし、老衰で枯れてしまったために、一九七一年に根こそぎ取り払って、その場所に同じ楡の苗木を植えたという。

 ソ連人民芸術家 B.V. シェルバーコフ(1916-1990)に『貧者の樹』という油彩の作品があるが、木は題名にふさわしく、鬱そうとした大木に描かれている。そちらの絵の大木の位置関係から判断すると、実際に立っていた木は、この絵(「L・N・トルストイの家博物館」)の老木の位置より少し後方であったようである。それで私の訪問時にその若木に気付かなかったのかもしれない。
 それはともかく、画家がこの作品を描いた時点では老木は既になかったわけで、かつてその辺りに立っていた老木を自らの強弱対比の構図に利用したと見るのが順当なところであろう。

 尚、ついでながら、ロシア絵画は、画家の創作意図を理解するのに、題名が重要であるというのは、私が常々述べてきたところである。仮に、鑑賞者が自らの印象のみで作品を判断するとしたら、「この絵は『貧者の樹』を描いたもの」ということになるであろう。誤解の落とし穴を避ける意味で、この作品は好例であるので、題名尊重の重要性を敢えてここに付け加えさせて頂いた次第である。